

自分自身、こんなひどい生い立ちを話すのは さすがにちょっとためらいますが(笑)
このような生い立ちがあったからこそ起業して、今まで突き進んで来られたこと。そして、こんなひどい人間(他校との抗争は日常茶飯事、後輩に万引きさせて品物を売ってはお金を得るなど)でも、やればできる。
ということを感じて頂ければと思って、思い切って披露することにしました。
読んでいただくと、本当にいろんな悪いこと(失敗)をしてきました。しかし、今では全く後悔はありません。逆に、最悪なことを経験したからこそ、最善を尽くそうと「今」を懸命に生きようとすることが出来るのだと思います。
この記事で、あなたにお伝えしたいことが「2つ」あります。

これはホリエモンさんの言葉ですが、何度読み返しても本当にその通りだな。と経験からも深く納得している言葉です。
この言葉の通り私も含め、人はどうしても過去を引きずってしまい、また、不安から恐怖から未来を知りたがったり 未来を語ってしまいガチです。
しかし、ご存知の通り 過去を振り返っても戻れません。未来はある程度予測はできますが、当たるかどうかは分かりません。
なので、今を生きる。今を懸命に生きていれば未来を切り開くことが出来る。と、私も経験からそう確信しています。
そのことも、私の恥ずかしい過去をお話しながら お伝えできればと思います。
少年時代は その人の原点(ルーツ)です。せっかく貴重な時間を割いてまでお読み頂くのですから、ぜひ、以下のポイントを意識しながら読み進めてみて下さい。
- どんな遊びに没頭していたのか?
- どんな性格だったのか?
- どんな環境で、どのように生活していたのか?
- どういった親だったのか?
- どんな教育を受けて育ったのか?
「自分自身はどうだったかな?」と振り返りながら読み進めてみて下さい。それにより、あなた自身のルーツを知れる良い機会になります。
気づきを得られた分、人は成長できますから。
どうぞ、笑いながら、突っ込み入れながら読んで頂ければ嬉しいです★
目次
やんちゃ過ぎる小学生時代

地元のバス会社の運転手をしていた父と、歯科助手をしていた母との間に生まれた一人っ子です。
ウチは決して裕福ではありませんでしたが、両親が頑張って働いてくれていたお蔭で、経済的な不自由を感じることはありませんでした。両親は共働きでしたし、同居していた祖父母も野菜を作っていて、それを農協や市場に卸していたので、そこそこの生活はできていました。
父は陸上自衛隊上がりで、最初は公務員になろうと思っていたようですが、月給が激安だとわかって「そんなもんやってられない!」と言って、当時、県内の民間企業の中でも結構 給料が良かったバス会社に入ったそうです。給料は定年になる少し前から下がり始めたみたいですが。
両親が共働きだったので、私はほとんど祖父母に育てられました。
小学生の頃の私は、とにかくやんちゃ(笑)
当時、自宅の裏にポップ畑があって、自分の背丈よりも高くポップの穂が伸びていたのですが、夏休みに遊びに来ていた親戚の子と一緒にそのポップを切りまくり、こっぴどく怒られた記憶が今でも残っています。
ごく普通の家庭で育つ
両親も祖父母も「あれしちゃダメ、これしちゃダメ」と私を抑圧するようなことはありませんでした。だから、私は自由に遊ぶことが出来ました。さすがに、悪いことはしたら怒られましたが(笑)
両親は共働きだったので、遊んでもらったことはほとんど無いのですが、日曜日はたまに母親が近くのスーパーまで連れていってくれて、屋上でゲームをさせてくれました。
一方、父親は仕事がシフト制で土日も祝日も関係なかったので、日曜日に遊んでもらえたことはほとんどありません。
とはいえ、父親は海好きだったので、夏休みには車で私の友達もいっしょに海に連れて行ってくれたこともありました。この思いでが、「株式会社サマーウインド」にもつながっているかも知れません。
とにかく負けず嫌いの性格
小学生の頃は、みんなでソフトボールやサッカーをよくやってました。
私が住んでいた地域は過疎化が進んでいて、小学校も全校生徒が120人くらいしかいませんでしたし、私の学年も24人の1クラスだけ。
私はソフトボールではピッチャーをやっていました。理由は、スポーツをやるからには主役でやりたいから(笑)。
そして、「やるからには負けたくない」という気持ちもありました。なので、ソフトボールが上手くなる本を買って自分で研究してはアレンジ。相手が打ち上げたボールを、本来ならキャッチャーが捕るべきボールを「オレが捕る!」と言ってボールに猛ダッシュ。
結果、キャッチャーの子とぶつかってしまい、唇から流血し何針か縫うハメになったこともあります。
チームプレーは俺には合わない!勉強なんてしたくもない!
「負けたくない!」一心でソフトボールなどやっていましたが、その一方で「団体競技は自分には合わないな」、という気持ちもその頃から芽生えてました。
なぜなら、自分のミスがチームに迷惑をかけるのが嫌だったのです。
楽しかったのは楽しかったのですが、自分だけの問題で全て片付くのが自分には合っているな。と思ったのも事実でした。
それを最も痛切に感じたのが、縄跳びの「5人飛び」。1つの縄をぐるぐる回している中に、1人ひとりが順番に入って飛ぶやつです。
で、そこでミスをすると「あーあ、渡部のせいでみんなの努力が…」とか不満そうに言われる。その時に、子供ながらも「オレはこんな連帯責任とか、チームプレーっていうのは合わないな」と思ったのです。
楽しそうだからワルになった中学生時代
中学生の頃の私は、それはもう本当にひどいくて、3年間だけでウチの親は10回学校に呼び出されてます。がしかし、今までの人生で一番おもしろかった時代でもあります。
というわけで、この頃から徐々に「今日から俺は」の道を突き進んでいくので(笑)時代を感じながら、ぜひ読み進めてみて下さい♪
ちなみに、世間一般的にいう「不良」「ヤンキー」は、「親が気に食わないから」とか「世間がおもしろくないから」といった理由でなる人が多かったものです。しかし、私にはそういった不満は私はありませんでした。
ただ楽しそうだったからやってみたかった(笑)。はい、ただそれだけの理由です。
なお、部活はきちんと入ってまして バレーボール部です。本当はサッカー部に入りたかったんですが、小学校の先輩で ちょー怖い先輩がいたんですが、その人がバレー部にいて「おまえウチの部に入れ」その一言で入りました。
はい。その先輩には絶対に逆らえなかったので、そこに入部せざるを得なかったのですが、バレーは見るのも嫌で、やるのももっと嫌でした(笑)。
練習は、他にもバスケット部や卓球部など、体育館を使って練習する部があったために、曜日によって小学校の体育館をあちこち移動してやっていました。
もちろんタバコも吸ってました
実は、その移動の途中、私は友達の家でタバコを吸っていました(体育館の裏でも吸っていました)。例の怖い先輩が吸っていたので、いっしょに吸うようになったのです。
なお、その怖い先輩が中学校を卒業してからは、自由に動くことができたので、バレーの部活の時間が始まっても練習をせずに、バレーボールを使ってはバスケをしたり、他にも体育館に置いてあるマットを使ってプロレスをやるなど。あと、後輩を呼びつけてプロレスの技の練習台になってもらってました。
あ、こういうプロレスごっこは、マジで危ないので真似しないで下さい(汗)。
夏休みになると毎週に近いくらい、みんなでキャンプをしていました。もちろん、飲酒もタバコもやり放題。ワイワイやって、とても楽しかった思い出があります。
夏は他に、小学校のグラウンドでみんなで野球をやっていたときに、ちょっと水分補給のために休憩したいと思ったら、グラウンド脇のスイカ畑からスイカをかっぱらってきて、空手チョップで割って食べたりした思い出もあります。
あなたも、空手チョップしてスイカを割った経験ありますよね?(笑)
授業?なにそれ?
なお、お察しの通り 授業は全く聞かない、時には出席すらしない始末。
そのため、中間テストや期末テストの成績は下から数えたほうが早いぐらいで、成績も毎回下がるものだから通知表を見た母親はヒステリック気味に起こってくるんですが、その度に私は

と怒鳴り返しては全く言うことを聞きませんでした。
しかし、別に母親に不満があったわけではなく、単に反抗期の真っただ中だっただけです。
はい。こういう生徒だったので、親は最低でも10回以上は学校に呼び出されています(汗)。ほんと、親には迷惑をかけたな…と 改めて書きながら反省してます。
私が部活の練習をしていると

という校内放送が流れ、行ってみるとそこに父親がいるんですよ。
父親が放った衝撃の言葉
私がタバコを吸ったということで呼び出されたのですが、父親は学校の先生に対してこう言うわけですよ。

父親は学校以外にも、私が先輩の家でもタバコを吸ったということで先輩の親から呼びつけられたこともあるんですが、その時の相手の親に対する対応も同じでした。

父親はタバコを吸う人ではなかったのですが、なぜかそういったことには理解がありました。しかし、さすがに何度も呼び出されるのが面倒で、私に

と言ってきました。今読み返してみても、ごもっともです(汗)。
それ以来、私がいくら悪くなろうとも、父親にはあまり怒られた記憶はありません。母親は近隣から

という感じで言われていたみたいなので、よくヒステリックに怒ってきましたが怒って当然ですね。はい。
中学2、3年の頃の私は、いわゆる「ヤンキー」と聞いて皆さんが想像されること、「今日から俺は」を一通りやってきた感じです。そんな毎日を繰り返してました。
あまり家に帰らず、よく友達の家でポテトチップを食べてコーラを飲んでタバコを吸いながら泊まり込んでいました。
「家から近い」という理由だけで工業高校へ
実は、私は最初、

と言っていました。だからといって、高校に進学せずに働きたかった訳ではありません。
単に、これ以上 勉強させられるのが嫌だっただけです。
しかし、親に以下のように言われて思いなおし、高校進学を目指すことにしました。

私が志望したのは、地元の工業高校でした。
その理由は、工業高校が好きだったから。ではなく、単に家から近い高校に行きたかったから。入りやすかったから。という、よくありがちな理由です。夢があったからとか、これがやりたいから。という物もありませんでした。
他の高校は どこも電車で何十分とか、隣のそのまた隣の市にあるとか、とにかく遠すぎたのです。
家の近くにはもう一校あったのですが、そこは偏差値が高くて 自分の成績では絶対に行けないところだったので、工業高校を目指したわけです。その工業高校は家から近いといっても、自転車で30分はかかる場所でした。
しかし、進学指導の先生からは このように言われました。
絶対に入れないから諦めろ!
その工業高校は決してレベルの高い高校ではありません。それなのに、先生から「諦めろ」と言われたぐらいですから、

ということが お分かり頂けると思います(笑)。
それでも私は、その工業高校が「家から近かったから」行きたかったので、試験前の一か月間だけ割とまじめに受験勉強をしました。
そしたらなんと!
割と簡単に受かってしまったんです。
そのあたりは、小学校時代の担任の先生が言っていたように、なりの素質(「お前は頭は悪くない」と一応言っていただいておりました)だけはあったのかな?と思ってます(笑)。
私はタバコを吸ったりして素行も悪かったので、内申書は全くダメだったはずですが、進路指導の先生が良い先生で その内申書もなんとかしてくれたようで、そのお蔭もあって合格できたのです。
しかし、別に勉強したくて高校に入ったわけではありませんから、高校でやっていたことは単に中学校の頃の続きという感じでした。
中学の友達はみんな他の高校に行ってバラバラになったので、私は高校で新たな友達を作って「悪行」を開始。
髪はオキシドールで茶色に染める。
先生からこのように言われても直さない。

他行との抗争も日常茶飯事!後輩に万引きをさせることも
他行との争いも

と言ってはしっかりケンカもする(笑)。
はい。まさにまさに、「今日から俺は」のイメージのまんまと思って頂ければと思います♪
ただし、万引きだけはもうやりませんでした。
その代わり、友達や後輩に万引きさせるようになりました。そして、その盗んできた物は私が売って、得たお金からその友達や後輩に成功報酬として与えていました。
今思えば、これって「アフィリエイト」ですので(笑)、ここから無意識ながら、自分の商売の基礎…。というか、そのあたりがスタートしていたのかもしれませんね。
タバコの件では、時々職員室にも呼ばれました。
しかし、疑いがあるというだけで、先生に現場を押さえられたわけではなかったので、何とか切り抜けることが出来ました。
私が通っていた高校は、停学になると坊主頭にしなければいけなかったので、私は頭を丸めるくらいなら退学しようと思っていたのですが、そこまでにはならずに済んだのです。
やっと女性に目覚める!笑
はい。渡部、この頃になってやっと女性に目覚めたような気がします(爆笑)
工業高校なので、女子生徒はほとんどいません(少子化で学校が合併する現在では、考えられないかも知れませんが)。女っ気がなく、男ばっかりで汗臭い日々がこんなにもつまらないものだとは思いませんでした。
中学校の頃は、一応10人以上に、いわいる「告白」をされたのですが、女性にシャイだったために全部断ってしまってました。そのくせに、この頃は、女性がいなければいないでつまらない。その時、どうして共学にしなかったんだろう…遠くても共学のが良かったな…と、後悔したものです。
でも、もう手遅れ(涙)。私は3年間、ひたすら汗臭い生活に耐えました。その意味で、男子ばかりの高校生活は、中学の時よりもつまらなかったのです。
周りの大人に支えられ今がある
今振り返ると、友達の家でタバコを吸ったり、酒を飲んだり…。本当毎日が楽しかったです。映画のスタンドバイミーみたいな感じです。
友達の親も、私たちが家に酒を飲みに行くとツマミを出してくれたりして「楽しくやれ」と言ってくれまして、ずいぶん理解があるなと思いました。思えば、その町の大人たちがみんな心の広い人だったような気がします。
たとえば、夜中に酒が足りなくなると、みんなで近所の酒屋のシャッターをバンバン叩いて「酒を売ってくれ────────────!!!」と叫ぶのが普通でした。
もうとっくに店は閉まっているのに、店のおやっさんはいつも出てきてくれていたんです(普通、出てきてくれるなんて あり得ないです)。


明かに高校生だと分かっていたはずなのに、それでもおやっさんは酒を売ってくれたんです。
私たちにとっては、もちろん良いおやっさんでした。今は、その酒屋さんは店を閉めてしまってとても残念なのですが、今でも深く感謝しています。
高校3年でロックバンドを始める
高校3年生になって、私はロックバンドを始めました(もっぱらコピーバンドでした)。
楽器代は、万引きで得たお金ではなく、ちゃんとバイトして貯めましたよ!私が通っていた高校は、夏休みや冬休みの間は届け出さえ出せばバイトOKだったのです。
友達や後輩に万引きさせていたのも、その頃にはもう辞めていました。中学の頃からけっこうやり尽くした感があったので、もう卒業かな。と思ったのです。それに、やり尽くしたからこそ以下のように思って、かなり反省もしていた時期でもありました。

他の同級生たちは、その頃になって万引きで捕まったりするようになりました。
そんなニュースを聞くと、こう思ったりしたものです。

スイカ農家のバイトを始める
というわけで、その時はもう真面目にバイトしていたのですが、そのバイトはスイカ農家のお手伝いでした。
1日1万5千円も貰えましたから、20日で30万円。けっこうな金額ですが、その分 仕事の内容はとんでもなくハードでした(汗)。
夏、朝7時頃からスイカをいっぱいもぎ取る。それだけでもクタクタになるんですが、すぐに農家さんの自宅に戻ってスイカの形や大きさを選別して箱詰め。そして、隣の市の農協に納品して帰ってくる。
これが1日2回。
炎天下の作業ですから、きついことこの上ありませんでした。土木工事でも日当1万円くらいでしたから、作業のハードさもまさに土木工事以上だったと思います。それでも、私は頑張ってバイトを続けました。
親から毎月1万円くらいお小遣いをもらっていましたが、
基本的に以下のように考えていました。
最初の頃こそ万引きがらみでお金を得ていた私ですが、もう反省してからは改心して、真っ当にバイトをして稼ぐようになっていました。
髪の毛は金髪でリーゼントにしてタバコは相変わらず吸っていましたが、農家の人は全く気にしなかったし仕事はしっかりやっていたので、自分で言うのもなんですが評判はすこぶる良かったです★
いやいや、本当ですって(笑)
そして、せっせとバイトして貯めたお金でギター(後にヤフオクで2万5000円で売れることになる伝説のギターです(笑))とコンポを買いました。
先輩のクルマでナンパ開始
その頃、1年上の先輩がクルマの免許を取って クルマも持っていたので、それからは先輩と一緒にナンパにいそしむようになりました。
そう、中学時代は女性にシャイだった渡部が、ついにナンパデビューです!★
高校で全く女っ気がない環境に相当嫌気がさしていて、その頃はもう女性を積極的に求めていたのです。
高校を卒業して社会人1年目までは、まだ若気の至りで時々ケンカもしていました。
友達がクルマのトランクに木刀を備え付けていて、クルマから降りるときにそれをわざわざ持って、地下通路とかで目が合った、合わないでバチバチとやり合っていました。
ただし、社会人の経験を積むことによって徐々に落ち着いていって、つるんで悪い事をする。ということも無くなっていきました。
悪い事をやって来たからこそ分かったこと
ここまで振り返ってみると、私は悪いことをみんなより早く始めて、そして、それなりにやり尽くしたということが言えると思います。
今の時代、「今日から俺は」のような抗争をしているところの方が珍しいと思います(笑)
よくあるような、何かが不満でそのはけ口を求めて…というキッカケではなくて、単純に楽しそうで実際にやってみたら本当に楽しかったからのめり込んだ。やれるだけの事をやったワケです。
だからこそ、今はそんな悪いことは一切しません。
逆に言えば、「悪」いことを経験してもう反省をしたからこそ、今度は「善」を成そうとするとが出来るのです。
よく、お偉い役人が横領したり、教師が盗撮したりといったことで捕まっていますが、ああいうのは学生時代に勉強ばかりしていて悪いことをしていなかったからだと私は思います。
だからと言って、別に悪いことをしなさい。と言いたいわけではありません。
犯罪者の心は誰しも持っています。
光があれば影があるように、悪(犯罪者)の心を持っているからこそ、善の心も持っているわけです。
いわば、表裏一体。
しかし、学生の頃に悪いことをなりにやり尽くしたから

ということを、体験を通して身に染みて分かること。自分の心の中にそういった悪い心、犯罪者の心があるんだ。ということも、しっかりと認識できている。
なので、大人になってから悪い事を一切やらなくなったのは事実です。
ビジネスにも同じ事が言えます。
リアルにしろ、ネットにしろ、ビジネスで長期的に稼ぎ続けるにはマインドが「超」重要です。
このお蔭で私も、2005年から現在まで年間 数億を売り上げることが出来ている、と言っても過言ではありません。
学生時代にそこそこやり尽くしたからこそ、身をもって知っているからこそ、分かったというのもあります。
中途半端にやっていたら、絶対に気づかなかったことも沢山あります。だから、あなたには
絶対にやり尽くす!
ということをモットーにして欲しいと思います。
過去は過去、「今」を懸命に生きること。
はい。私のとんでもない過去をご覧いただき、もしかしたら ドン引きされたかも知れません(汗)。しかし、間違いなく過去の経験が「今」に繋がっている。というのは、感じて頂けたのではないかな?と思います。
ただし、冒頭でもお伝えしました通り、過去は、過去でしかありません。戻りたくても戻れません。
人はどうしても、何か失敗や過ちを犯してしまうと、過去に捉われ引きずってしまいがちです。分かります。
ですが、大事なのは「今」を懸命に生きることだと、私は思います。今を懸命に生き、大なり小なり何かを達成することが出来れば、心も満たされ、自ずと過去に囚われることも無くなるのではないか?と私はそう考えます。
もし仮に、失敗したなら、そこから学んで次に活かせば良いんです!
ちなみに、失敗という言葉は人が勝手につくったもので、自分が失敗と思わなければ失敗ではないので、ここでは便宜上使ってますが、実生活では全く使いません(成功も同じで、その人がどう思うか?です)。
辛いこと、悲しい事があったならば、それだけあなたは 人の痛みや辛さが分かることができる、素晴らしい人間へと成長することが出来たんです!
そのように、良い面も見ながら 前向きに考えて行って欲しいなと思います。
逆境をチャンス!と捉えよう
私も、ラーメン屋の事業に手を出し、わずか数日で1千万円もの損失を出し、結局そのラーメン屋をたたむことになりました。
ですが、「自分に合わなかったんだな」「勉強になったな」と捉えています。
※ちなみに、ネットビジネスに戻り本気でやったら2日で回収出来ました。
大事なのは、失敗から学び、次に活かすことです。
失敗したことへの恐怖から、何もしない、行動できない人も結構います。逆境に立たされた時、挫折してしまう時もあると思います。
しかし、
これは、たくさん失敗することで、その分 勝ちを取りに行っているんです。つまり、失敗しなければ成功もあり得ない。ということです。
失敗したなら、次は同じ失敗を繰り返さないように対策をし、次に活かせば良いだけです。それを繰り返していけば、道を切り開くことが出来ると、経験からもそう確信しています。
なので、ぜひ「逆境の時はチャンス!」と捉えて前進して行きましょう!
最後に
改めて、めちゃくちゃ迷惑をかけたのに暖かく見守ってくれた、育ててくれた父と母には心から感謝しています。
そして、今の自分があるのも 私を支えてくれる妻や子供、スタッフ、ビジネスパートナー、私を信頼して下さるお客様のお蔭です。心から感謝いたします。
また、貴重な時間を割いてまで、こんなに長い記事を最後まで読んで下さった あなたに、深くお礼を申し上げます。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございました!!
この記事を読んで下さったあなたが、私のとんでもない過去を読みながら、自身をより深く知るキッカケになれれば これほど嬉しいことはありません。
さらに言えば、あなたを産んで、育ててくれた両親や祖父母までさかのぼって探検してみて下さい。DNAレベルで繋がっているわけで、あなたの歴史でもあるからです。
両親や祖父母、その兄弟がどんな人で、どんな過去があり、どんな職業だったのか? 成功していたのか? などなど。分かる範囲で聞いていくことで、今のあなたがより深く見えてきます。
ぜひ、今回の記事からそのヒントを得らえることができれば幸いです。
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